住職ブログ

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2020.02.10

大般若法要って?その2

大般若法要って?その1の続きになりますので、まだ読んでいないという方は一度その1をご覧ください。次回予告であったように当山の厄除け法要は、なぜ大般若法要なのかを書いていこうと思います。

大般若法要は、約1300年くらい前から始まったと前回に書いたと思います。約1300年前だと聖徳太子による仏教への信仰により、日本に仏教が浸透しました。そのために聖徳太子が亡くなっても仏教は日本に広まり続けていたので、日本に仏教が確実に根付いていたと言える時代であったと言えるでしょう。

聖徳太子から始まった遣隋使派遣や、聖徳太子が亡くなっても続いた遣唐使派遣によって今で言うと官僚の立場の人は、中国の技術や政治の制度を学び、僧侶は仏教をさらに学び、経典などを収集していました。

また、民衆にも仏教を広めるためにお寺を建て布教していた。例として言うなら、聖徳太子の所縁ある四天王寺・法隆寺や奈良の大仏の東大寺などを建てました。お寺を建てるにあたり、色々な理由があったと思います。その色々な理由の一つには、日本に仏教を浸透させるためとも言えるのではないでしょうか。

↑のようにいきなり、「仏教は凄い」とか「仏様って」などの話をするよりも、目に見えるかたちにすることで説明がしやすくなり、民衆にも理解をしてもらいやすくなるからではないかと思います。

さらに、真言宗の開祖の空海・天台宗の開祖の最澄らによって仏教がさらに浸透していったと時代だと言えます。

つまり、聖徳太子の信仰によって日本に仏教が広まり、仏教が広まったおかげで約1300年前に大般若法要が行われていたことになります。もしも、仏教が広まってなかったら、いきなり大般若法要をするぞ~!って

こんな感じにならないですよね。前置きは、このくらいにしておきます。

大般若法要の始まりは、文武天皇の時代の大宝3年(703年)に行われたと記録がされていたと言われております。仏教が広まったことにより、天皇やその当時の偉い人たちが僧侶にお願いをして大般若法要が行われていたみたいです。

でも、なぜ天皇や偉い人が僧侶にお願いをしたのでしょうか?

その時代によって色々とありますが、疫病(流行り病)や飢饉・自然災害などによって安心して暮らせることができなくなり、この状況を何とかするために僧侶にお願いをしたと言われております。

疫病は、日本書紀によると、垂仁天皇の時代(弥生時代)には疫病があったと書かれております。また、約1300年前くらいになると、天然痘(てんねんとう)・はしか・結核・ハンセン病などが日本でもすでにありました。上記のような疫病で、亡くなる方や感染してしまう人々が増えてしまいました。

飢饉は、続日本紀(しょくにほんき)によると、702年から791年に及ぶ約89年間で116回も超える飢饉があったと書かれております。飢饉とは、何らかの理由により人々が飢えて苦しむこと。また、餓死率が上がるくらいの食料の不足とも言われている。

例えば、雨が降らないので農作物ができない。ということは、食べるものがないということ。そのことにより人々が飢えてしまい苦しむこととなるなど。

ちなみに、奈良時代だと約9万弱くらいの人々が飢饉に遭ったそうです。

自然災害は、日本書紀によると、データとして残っているもので一番最古の允恭(いんぎょう)地震で416年、599年には、推古地震があり、現在の奈良県で家が壊れるくらいの地震があったと書かれている。

震源地が明確に書かれたのが、679年の筑後地震(現在の福岡県)くらいからで、次に684年の白鳳地震(東海・南海で起こった)でマグニチュード8.4くらいの地震があったそうです。データとして残るくらい地震の歴史も古くから存在している。

上記のように、疫病・飢饉・自然災害によって、飢饉の人はさらに飢饉に、飢饉ではない人が飢饉になってしまうなど、負の連鎖反応が起こり続ける状況であった。

2020年2月現在でも、昔と変わらないですよね。疫病も今だと、肺炎を引き起こす新型コロナウイルスやSARS(サーズ)などの感染症、台風による水の災害や地震による災害などによって農作物も取れなくなったり仮設住宅で住む状況などがありますよね。また、地球温暖化によって、海の温度が上昇し、北海道では昆布の収穫量が激減したなどの現象も自然災害の一つだと思います。

それでも、現在の日本の技術や暮らしといった生活水準は1300年前よりもはるかに上回っているので、よっぽどの理由がなければ「私は飢饉にさらされている」という状況になったり、大変な状況であることにかわりはないが、昔と比べると飢饉の度合いも違うと思います。

疫病も現在では、医療や技術などの発展により明確な原因を研究することができるし、時間は結構必要となるが薬も開発されるため、予防や治療もでき、昔と比べると安心して暮らせるようになったと言えるでしょう。

しかし、1300年も前に疫病の理由がハッキリとわかったり、飢饉から救う活動が充実していたり、自然災害が起こってもその後の対応が迅速に行えるかなどの問題は、もちろん不十分である。

現代の科学・技術・医療の発達をしても新型ウイルスといった問題が現れると思うと、日本書紀などが書かれた時代は、悲惨という言葉で表現するのも失礼な言い方になってしまうと思います。

そもそも、昔の人が「これは新型ウイルスだ!」「疫病の原因はこれだ!」みたいな感じになったかというと定かではないです。しかし、医療が発達していない昔は、病気は目に見えない存在が原因として起こるものと考えられていました。そして、特に疫病などの重病は神様・仏様からの警告、鬼・怨霊などからの災いと考えられていたそうです。

怖い鬼(疫病)が自分に災いを持って来るというイメージであっていると思います。

ちなみに、疫病神・厄病神の語源は、疫病の神様からの災いである、という考え方から生まれたものという説もあります。(どちらの漢字でも同じ意味だそうです)

また前置きが長くなり申し訳ございませんが、あともう少しで終わりますので最後までお付き合いください。

その当時の天皇も偉い人も目に見えない存在に対してどうすれば良いのか、自然災害や飢饉などにもどうすれば良いのか考えました。その考えた結果が、大般若法要をしてもらってお祓いをしなければならないと思ったわけです。大般若による祈祷を選んだ理由の一つには、自分に災いをもたらす悪いものは音に敏感だからと言われているからです。

イメージですが、こんな感じで災いが近寄って来ると思ってください。

大般若法要は、大きな声を出す・ポンと箱を叩けば音がなります。つまり、音が飛び交うわけですから悪いものを追い出す・近寄らせない=最適な法要ということになります。

大般若法要によって災いなどが逃げ出していくっていう感じで思っていただけたら幸いです。

つまり、天皇や偉い人もこの見るに堪えない状況を打破する一つのきっかけとして「大般若法要をしてください」とお願いをしたのではないかと思います。また、天皇は昔から国民に平和をという強い思いを持っているために、天皇が自ら金の墨で般若心経を写経してお寺に奉納したり、国民の平和な暮らしができるように僧侶にお願いをして祈祷をしてもらっていたわけである。

天皇家の国民への思いは今もなお、受け継がれているので、日本の平和・世界の平和を常に願っておられるわけです。

当山では、天皇の慈悲深い思いを感じながら国の平和を思い、人々に災いをもたらす悪いものを祓うのに最適な大般若法要を厄除けの法要にしているわけです。

当山では、上記のように思っているから厄除けは大般若法要にしようと決めたわけです。厄除け法要は必ずしも大般若法要でないといけないという訳ではありません。そのお寺さんによって色々な思いがあって、色々な厄除け法要を行っております。そんなたくさんの厄除け法要のやり方があるなかで当山は、大般若法要を厄除け法要としていますよというお話でした。

毎度毎度になりますが、このブログで書かれていることが正解でそれ以外が不正解ということはありません。また、当山にお参りに来てくださる方々や、ブログを読まれている方々に、参考程度にしていただけたらなと思いブログを更新いたしました。

今回は、日本の歴史を辿りどういった経緯で日本は大般若法要をしたかを紐解きながら、当山がどういった思いで大般若法要をしているのかを書かせていただきました。自分が思っていたよりも長文になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

素材 いらすとや様 ありがとうございます。

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